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Roudoudou note

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母と双子の記録〜

パリ生活のはじまりと誕生日

私がフランスのパリに赴任したのはちょうど20年前の8月22日でした。
そして20年前の今頃はまだまだパニック中でした。

2~3日の会社近くのホテル滞在を経て、
各々割り振られた会社借り上げのアパート住まいが始まりました。
私のアパートは16区の高級住宅街の中でエッフェル塔が正面に見えるビュウポイントの
トロカデロ広場まで徒歩約7分くらいの素晴しい立地条件にあり、約40㎡のワンルームでした。
オレンジレッドのミニキッチンとそれとは対象的に大きな70’s風のサルドバン(トイレ・洗面台・バス・洗濯機)が付いていて、部屋はだだっ広くベットと机だけが置いてありました。
防犯&雨戸として木製で手動の重たいシャッターが付いてはいたものの・・・
借り上げたばかりでテラス側の壁一面の大きなガラス戸にはカーテンすらありませんでした。
だからその大きなガラス戸は(しつこいようですが壁一面)日が落ちた後はまるで鏡と化し、
夜には部屋が倍の広さに感じる程でした。

カーテンは自分で買いに行かなくてはなりませんでした。
どこでどんな形態で売っているのか休日にギャラリーラファイエットやスーパーに通い詰め
いろいろリサーチしました。(不幸中の幸いは日本と同じ単位m・cmだったことかな)
会社からメジャーを借り、それから自宅の壁のサイズを測る。
晴れて購入に至るまでには一ヶ月以上かかりました。(アパートとお店を何往復したかわかりません)

カーテンが付くまでの間、よく鏡に見立てその前で踊ったり・・・
(乱舞というのかな!人にはお見せ出来ないほどの・・・)
映っている自分と会話したり
それなりに楽しめたのですが・・・・

私の誕生日は8月29日(マイケル・ジャクソンと同じ)
赴任の一週間後でした。
私は今日が誕生日だということをだれにも告げることができませんでした。
仕事を終えアパートに戻るも・・・
新生活が始まってたった2~3日の部屋にはまだまともな食料の買い置きも無く
外で食べようにもフランス語はわからないし、どこに行っていいのやら・・・
何より・・・勇気もなく・・・
結局、日本食品店で買っておいたインスタントラーメンが誕生日のディナーとなったわけです。
ため息まじりでポロねぎと卵を入れたラーメンを煮て
いつも通りガラス窓に映った自分を相手に食べ始めました。

その日に限って・・・

サン・ディディエール通りを挟んだ向いのお宅のダイニングに灯りが点いています。
そしてどうもホームパーティーをしている様子です。
うまい具合に窓に写った自分がまるでパーティーに参加している光景になりました。

私は一瞬でホームシックにかかり、号泣しました。
胸が苦しくて痛くて・・・何も喉を通らなくなりました。

部屋にはまだ電話もついていませんでした。

だれひとりにも「おめでとう」と言ってもらえない誕生日。
実際若かったし、精神的にも子供だった私。
形容しがたい辛さでした。ものすごく寂しくものすごく孤独に思えました。

その経験は今でも思い出すと胸がギュッとする苦いものではあるけれど、
忘れてはいけない大切な出来事、感情のひとつとなりました。

次の年の誕生日もフランスで迎えているのですが全く覚えていません。
パリでの生活の始まりに受けたこの出来事によって、
それからの一年半が想定外のものになってしまいましたが・・・
でもひとつ言えるのは、以後何度も寂しい誕生日を過ごすことになったけれど、
あの時のあの思いに勝る哀しい誕生日は迎えていないということ。
そして人並み以上に辛さや寂しさや孤独感に敏感になったものの、
それに耐えられる自分に生まれ変わってしまったこと。

今は子供だけは確実に「おめでとう」と言ってくれる。
子供の存在が心からありがたく思える。
寂しさと孤独感が無くなったことに感謝している。

究極に寂しい誕生日の約1ヶ月後・・・
だいぶ生活にもなれたころ・・・
同期の女子3人で電車に乗りフォンテーヌ・ブローを訪れました。
ふたりはガトーを買ってて持参していました。
それは1ヶ月遅れの私の誕生会をするためでした。
フォンテーヌ・ブローの息を呑むほど美しい庭園のベンチでささやかに祝ってくれました。
私にとってそのふたりの仲間とフォンテーヌ・ブローは特別なものとなりました。
そしてその時食べたそのガトーは人生の中で最もおいしいバースデーケーキでした。

もう2度と3人でフォンテーヌ・ブローに行くことはできません・・・

かけがえのない大切な思い出です。
by roudoudou | 2009-09-09 14:32

by roudoudou